外画動画セミナー
午後5時30分、西新宿の芸能花伝舎に到着。受け付けをしようとしていると、同じ事務所の秋野かほりさんに声をかけられる。ここは、芸団協(日本芸能実演家団体協議会)が新宿区の廃校を借り受けて管理している建物。
今日は、ここで、日俳連(日本俳優連合)、音声連(日本音声製作者連盟)、マネ協(日本芸能マネージメント事業者協会)の三団体による、新人声優向けの、吹き替え放送50周年記念事業、外画動画セミナーが催される。ずいぶんと漢字が並んだが、いささか乱暴ながら簡単に言えば、外画の吹き替え版を制作している人たちの団体のことだ。
セミナーは三部構成で、外画動画のこの50年の歩みを説明したスライドショーの上映、パネルディスカッション、参加者による歓談となっている。このうち、スライドショーについて、以下に書いてみよう。
スライドショーでは、1953年(昭和28年)のテレビ放送開始にともない吹き替えの生放送がスタート、その3年後の1956年(昭和31年)に録音による外画の吹き替え放送が開始、その第一作目は、滝口順平さんによる『カウボーイGメン』であったことが語られる。吹き替え放送50周年とは、この年から50年を経過したとの意味。
放送が始まった当初、日本のテレビは、今の言葉で言えばコンテンツ不足に陥っていた。その穴を埋めるべく、海外のテレビドラマや映画が輸入されたのだ。輸入作品の登場人物は当然、現地のネイティブの言葉をしゃべっているため、そのままでは日本のお茶の間に受け入れられない。当時の技術では、字幕スーパーを入れるのに費用がかさんだため、その結果として、なんと生で吹き替えが行われたのだ。
ここで、以前の、矢島正明さんと中村正さんのお話を思い出す。今から8年半ほど前、『地球防衛放送パンドラ』の第1回スタジオ収録での「とり・みきの吹き替えのススメ」のコーナーで、このお三方の会話をわたしは、スタジオのすみで聞いていた。
生の時代は大変だったが、放送が終われば開放される。しかし、録音になると全部うまくいくまで開放されない。テレビの番組は通常、いくつかのロールに分かれているが、そのロールの最後の一言で誰かがトチれば、録音は最初からやり直しとなる。これが、つらかった、と。
当時の技術では、録音はできるが、編集が困難であった。この中途半端に進歩した技術が、声優さんたちに、こんなごむたいな労働を強いていたのだ。当時、電気・電子・情報関係の技術者だったわたしは、内心、ジクジたるものがあった。
また、当時のスタジオは狭く、出演者はすし詰めで、小さなモニターの前にたった一本のマイク。自分の出番にマイクまでたどり着けず、セリフをとばしてしまった方もいらしたそうな。
今年、わたしが4本出演したボイスオーバーでは、大型のモニターが2台あったし、マイクも3本、レシーバーはワイヤレスで原音を聞くことができ、スタジオ内を自由に歩き回れたのだ。しかも、あらかじめ台本と番組のビデオテープを受け取り、自宅で納得がいくまで練習できる。なんという違い。
そんなこんなを乗り越えて、今年、ついに、吹き替えは50周年を向かえるというわけだ。
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