【ひとりオタクしりとり】No.18
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学士会館二一〇号室で催された平山亨先生をしのぶ会に参列する。
昨日までは珍しく二つの台風が同時に日本に接近して雨が降るなどしたが、今日は一転、雲一つない澄みきった青空。まるで、先生の清廉なお人柄を映しているかのようだ。
会場に到着しクロークに荷物を預けて受け付けで記帳し、持参した雑誌などをお渡しする。10年ほど前の品で、平山先生のインタビュー記事が掲載されているものだ。番組の制作をご一緒させていただいたご縁で、わたしもご相伴あずかりインタビューを受けている。
お花を一輪渡され、それを待って献花台へ。その間に、ライターの堤哲哉さん、声優などをされている塩野勝美さんにご挨拶。さらに面識のある方だけでも、作曲家の渡辺宙明先生、俳優の佐々木剛さん、高野ひろゆきさんらのお姿をお見かけする。広い会場内に次第に人が増えてきた。
参列者による献花の後、登壇した読売新聞文化部記者の鈴木美潮さんの進行で、まずは平山プロデュース作品を紹介するビデオ映像の上映。『悪魔くん』に始まり、もちろん『仮面ライダー』や『秘密戦隊ゴレンジャー』を含めたオープニングや見せ場の数々のダイジェスト映像だ。番組タイトルなどが映し出されると、拍手や歓声が沸き上がる。中でも一番盛り上がったのが、そびえ立つ給水塔のてっぺんに、突如高笑いとともにV3が姿を現すシーン。これなんだよなあ、僕らが子どもの頃胸を躍らせたのは。
続いて、ゲストによる弔辞。
最初は、東映株式会社の鈴木武幸専務取締役。ロボコンを担当された頃の思い出話を披露された。あるとき、必ずしもよい出来でないエピソードの試写が行われた。関係者は皆、黙ったまま。すると平山先生お一人だけが、称賛の声を上げられたそうな。その際、監督は孤独なんだからその労に報いるために誰かが褒めてあげきゃいけないんだよ、と教えられたという。
お二人目は、渡辺宙明先生。平山先生とともに多くの作品を手がけてこられた。曲ができ上がると関係者一堂を相手にデモを行うのだが、自信なさげにしているときなど、平山先生に力づけられという。
弔辞の三人目は、脚本家の辻真先先生。平山先生のプロデュース作品の一つ『柔道一直線』放送の時期、辻先生は真裏の『アタックNo.1』の脚本を執筆しておられた。『アタックNo.1』は集英社の少女誌『マーガレット』の看板作品だったのだが、同誌のある号の表紙を飾ったのは『柔道一直線』の主演のお二人、桜木健一さんと吉沢京子さん。『アタックNo.1』の制作会社・東京ムービー(当時)の関係者が怒って集英社に抗議に行くと、編集者も負けじと、「編集権の侵害だ!」。これには、参列者一堂大笑い。そうとも、これはなんと言っても、あの平山亨先生をしのぶ会なんだ。湿っぽい話ばかりじゃ似合わない。
その後、弔辞を述べられたのは、藤岡弘、さん。むろん今や立派な大物俳優さんなのだが、業界の長老・重鎮がすし詰め状態の会場にあっては、まるで若手俳優であるかのような印象を受けるから不思議だ。その藤岡さんが本当に若手だった『仮面ライダー』出演当時、自ら起こした事故のため入院していたベッドの傍らで平山先生が励ましてくださったことを今でも鮮明に覚えておられるとのこと。将来の保証のない役者にとって温かい言葉がどれだけ救いになるか、今の自分には身にしみて分かる。
弔辞の締めは、宮内洋さん。先日パチンコ店の前を通りかかった宮内さん、V3と風見志郎のポスターを見かけると、すかさず携帯電話を取り出し写真に収められたとか。そして最後に、先生の遺影の前でそのV3の変身ポーズを実演。このポーズに込められた気迫がひしひしと伝わってくる。
どのお話からも、先生とともに過ごされた時間を宝物のように大切にされているお気持ちが痛いほど伝わってくる。本当にいい会だった。
会場を後にし、場内で一緒になったUMA研究家の天野ミチヒロさん、漫画家の海老原優先生と学士会館向かいのファミレスで食事。先生のご冥福をお祈りする乾杯に始まり、話は今日の会について、続いていきおい特撮談義に……。久々に濃いおたく話を堪能した(^_^;
そういえば、どなたかの弔辞の中に、今ごろ先生は天国で先に逝かれた石ノ森章太郎先生らと企画会議をなさっているのでは、とのお話があった。であるなら、きっとスタッフ・キャストには、天国が誇る豪華メンバーが顔を揃えることだろう。その結果でき上がるのは、かつて誰も目にしたことのないような痛快娯楽作品。いいなあ、観てみたいなあ、天国版平山プロデュース作品。先生、いずれ拝見しにまいります。そのときまで、存分に作品創りをお楽しみください。いえ、その前に、まずはごゆっくりと休養をお取りくださいますよう。
会場で参列者に配られた先生のサイン入りお写真。この笑顔こそが先生のトレードマークだ。場内は撮影・録音ご遠慮くださいだったが、これは掲載して構わんのだろうなあ。
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【や】 ヤン・ウェンリー
自由惑星同盟軍提督。その名はペテン師として、銀河中に知れわたる。
希望進路:年金暮らし
特 技:朝寝坊
以下、山本正之先生の「戦国武将のララバイ」の替え歌で。
♪ホントはね ホントはね 軍人稼業がイヤだった
給料分だけ働いて 早く辞めようと思ってた
エルファシルでみんなを救い イゼルローンを取り上げて
いつの間にやら勘違いされ ヤン・ザ・マジシャンと謳われた
戦(いくさ)が商売なんて なんて虚しい人生だろう
宇宙は要らない 年金欲しい
死にたくないない その気もない それでも これから大丈夫
燃えるレダII号 フレデリカごめん
というわけで、お次は「りー」。
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わたしは子どもの頃、こんなふうに考えていた。
「頭の良い人ほど人格者だ。なぜなら、頭の良い人ほど知識も豊富で、かつ、それらを扱う能力も高い。したがって、自らのあり方をより深く省みることができ、よりよい方向に正すことができるからだ」
しかし社会経験を重ねるにつれ、上の考えが誤りであることに次第に気づいてきた。
今回は、これについて述べてみたい。
まず、上述の考えの前半部分「頭の良い人ほど知識も豊富で、かつ、それらを扱う能力も高い」について吟味してみよう。
この部分だけを取り出して考えれば、とりたてて問題はないように思われる。
頭の良い人ほどよく勉強しており、当然知識は豊富だ。特に高度な専門性を要求される職業に就いている場合など、豊富で高度な知識を持ち合わせていればいるほど、周りの人たちからより頭の良い人と評されることだろう。
また、知識を扱う能力の高いことも頭の良い人とされる条件の一つであろう。例えば、受験。受験とは、つまるところ、あらかじめ与えられた解法を与えられた問題により正しく当てはめ、より短い時間により手際よく正解にたどり着く能力の優劣を競う場だからだ。その結果、より高得点を獲得した者がより頭の良い人として扱われることになるだろう。
では、上述の考えの後半部分「自らのあり方をより深く省みることが」「よりよい方向に正すこと」についてはどうか。
この部分も、これ自体は問題なかろう。
日々の自らの行いをより深く省みることができれば、そこから今後に活かすべき教訓をより多く学び取ることができ、自らを人格者としてより高みへと導いてゆくことができるだろう。
すると、わたしが子どもの頃に考えたことのどこに問題があったのか。
実は、上述の考えには暗黙の前提があったのだ。すなわち、「頭の良い人は、その頭の良さを自らを高めることに役立てるに違いない」という思い込みだ。ここに誤りが潜んでいた。
考えてみれば、上で述べた、知識が豊富で高度なことや受験の能力に秀でていることなどは、その人が自らを高めようとする志の高さとはなんら関連のないことだったのだ。
そして実際に社会に出て多くの人たちに接してみると、この思い込みが誤りであるという事実に直面することになった。頭の良い人たちの中には、その頭の良さを自らを高めることに役立てるどころか、自らを省みる必要などないと強弁することに巧みに利用する人たちもいたのだ。つまり、自己正当化のうまい人たちだ。
こういう人たちの中には、ウソをついてごまかしているようにはまったく見えない人たちもいる。どうやら、自分のあり方は絶対に間違っていないと頭から信じ込んでいるようなのだ。こうなってしまっては、もはや人格者どころの騒ぎではない。自らのあり方を省みてよりよい方向に正すどころか、独善の道をまっしぐらである。かつて頭の良い人ほど人格者だと思い込んでいたわたしは、大きな失望を禁じえなかった。
同様の見聞を繰り返すうちに、わたし自身は、独善の道になるべく踏み込まぬよう注意深く自らを省みて、よりよい方向に正すよう日々ささやかな努力をするようになった。いや、しているつもりなだけなのかもしれないが……。
ところで、この文章をお読みのあなたの周りにおいでの頭の良い方たちはいかがであろうか。自らを省みることの多い方だろうか、それとも省みぬための言い訳に忙しい方だろうか。
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